選挙は「現実」か? 三界の溶解についての覚書

ある政党が得票率45%で議席占有率68%を獲得する。残りの55%の票は議席に変換されない。この乖離はバグではなく仕様であり、小選挙区制が設計上もたらす圧縮効果だ。議席数は民意の表象ではない。特定の制度的フィルターを通過したあとの出力結果である。
この出力結果を「現実」と呼ぶとき、その「現実」はなにを指しているのか。
開票日の夜、スマートフォンに速報が届く。議席数がリアルタイムで更新され、SNSには歓喜と絶望が溢れる。数字とイメージと感情が一体になって押し寄せてくる。「現実を突きつけられた」という言葉が飛び交う。だが、突きつけられた「現実」の正体はなにか。
選挙には、欲望や不安や怒りや無関心を、あらかじめ用意された選択肢のなかに流し込み、「票」という等価な記号に変換する作用がある。投票行動の背後にある言語化されない感覚——漠然とした不安、「なんとなく」の判断、投票所に行かなかった人々の沈黙——は、この変換の過程で切り落とされる。
ジャック・ラカンの概念を敷衍すれば、選挙は主に象徴界で駆動する装置だ、と言えるかもしれない——ひとまずの整理としては[2]。無数の動機が「1票」という均質な単位に圧縮され、集計され、議席数として出力される。出力結果は象徴的秩序の産出物であって、ラカンが「現実界」と呼んだもの——象徴化に抵抗する剰余[3]——ではない。しかしそれは、あたかも動かしがたい事実であるかのように「現実」と呼ばれる。
スロヴェニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクはこう語る。
民主的選挙が真理の出来事を実現することはありうる——冷笑的な惰性に抗して、多数派が一瞬だけ「目を覚まし」、支配的なイデオロギーに反対票を投じるような選挙だ。しかし、そのような選挙結果がまさに「例外」でしかないという事実こそが、選挙そのものは真理の媒体ではないことを証明している。
ここに、クロード・ルフォールの議論も重ねておこう。ルフォールは近代民主主義において権力の場所は原理的に「空虚」でなければならないと言った[4]。選挙は空虚な場所を一時的に充填する儀式だ。充填された結果を固定し、「これが民意だ」と縫合することは、全体主義的な身振りに通じる[5]。
選挙結果を「現実」と呼ぶとき、その言葉は制度の出力結果を自明な事実かのように扱うことで、制度の外部を不可視にする。
数えられなかった者
選挙が「数え上げ」る範囲には、構造的な外部がある。
有権者であっても投票しなかった人。選択肢のなかに自分の声を見出せなかった人。外国籍を理由にそもそも有権者として登録されていない人。選挙の「全体」は、はじめから全体ではない。
ジャック・ランシエールは、「ポリス」という概念でこの構造を記述した[6]。ポリスとは、「なにが見え、なにが見えないか」「誰の声が言葉として聞かれ、誰の声がノイズとして処理されるか」を決定する配分の秩序のこと。ここで強調しておきたいのは、この秩序が「重要な者は誰も排除されていない」というフィクションを維持する点だ。ランシエールによれば、政治はこのフィクションが破れる瞬間に始まる。数え上げから外された者たちが「私たちもここにいる」と声を上げる瞬間に[7]。
議席数の語りにおいて、投票しなかった者、しえなった者の沈黙は消去される。
カメルーン出身の政治哲学者アシル・ンベンベの「ネクロポリティクス」は、別の水準からこの問題に光を当てる。
ンベンベによれば、主権の究極的な表現は、誰が生きることを許され、誰が死ななければならないかを決定する権力にある[8]。ンベンベは西洋型の自由民主主義体制の二重構造を暴露する。この種の民主主義には「太陽的」な自己イメージ——平等、正義、議論のシステム——がある。しかし同時に、そこには「夜の身体」がある[9]。植民地主義を駆動した欲望、恐怖、情動、暴力の系譜だ。
ンベンベの枠組みを借りて言えば、選挙は自由民主主義体制の「太陽面」に属する儀式だ。数え上げが粛々と遂行される象徴的セレモニー。しかしこの「太陽面」の裏側には、選挙の数え上げから構造的に排除されるか周縁化される人々がいる。「使い捨て可能」とされた者たちは、選挙の「現実」においてその不在すら記録されない。
選挙結果を「現実」として提示する言説は、この構造のなかで二重の操作を遂行すると言えよう。まず制度として排除し、次にその排除を「全体」の名のもとに正当化する。
三界の溶解
冒頭で、選挙という装置は主に「象徴界」で駆動する、と書いた。これはラカンの三界(象徴界・想像界・現実界)の区分を前提としている。しかし、その区分自体がもはや揺らいでいるとする見方がある。
三界を単純に整理すれば、こうなる。象徴界は言語と規則の秩序。想像界はイメージと同一化の領域。現実界はそのどちらにも回収されない剰余。選挙でいえば、議席数は象徴的データ、「圧勝」「惨敗」のイメージは想像的なもの、投票行動の背後にある言語化されない感覚は現実界の残余、と一応は整理できる。

だがこの三つはいまや、かつてないほど混じり合っている。
ドイツのメディア理論家フリードリヒ・キットラーは、ラカンの三界がメディア技術の歴史的効果であることを示した[10]。キットラーの読みではこうなる。タイプライターが象徴界を、映画が想像界を、蓄音機が現実界をそれぞれ担った。三界の区分は抽象的な構造ではなく、異なるメディアの物質的な分離によって支えられていた。文字は音声を記録できない。蓄音機はイメージを記録できない。それぞれの限界が、三界の境界を物質的に維持していた。
デジタル化はこの分離を崩壊させる。画像も音声もテクストも、すべてが0と1に還元される。キットラーの言葉では、「人とテクノロジーを配線する代わりに、絶対知は果てしないループとして走り続ける」[11]。
では、崩壊の先になにがあるのか。ニューヨーク大学のメディア理論家アレクサンダー・R・ギャロウェイは『Digital Theory(デジタルの理論)』(2025)において、デジタル型の象徴秩序が成立するための条件を問うた[12]。ギャロウェイの出発点はマルクスの等価交換の謎だ。「20ヤードのリネン=1着のコート」——質的にまったく異なる二つのものを、どうやって「等しい」と言えるのか。ギャロウェイはこの操作をデジタルの最も基本的な表現として読み替える。異なるものを等しいとみなすこと(A = B)。それが「デジタル」の出発点だ、と。

M. Beatrice Fazi, Alexander R. Galloway, Matthew Handelman, and Leif Weatherby, Digital Theory, meson press / University of Minnesota Press, 2025. 99ページの図 ここでは「OP. I(人間)とOP. II(機械)が構造的に相似形になっている。
ギャロウェイにとって「デジタル」とは、0と1で世界を切り分ける技術の話ではない。それは「決断」——異なるものを等しいと宣言し(A = B)、比によって同一性を定義し(a/b)、ものに順序をつけること(A > B)——の総体だ。選挙はまさにこの三つの操作を遂行する。1票=1票は、異なる無数の判断を等価にする操作だ。得票数を議席に変換するとき、割り算が走る。当選か落選か。最後は二択に仕分けられる。キットラーが三界の崩壊を予見したのに対し、ギャロウェイはその先—を定式化しようとした。崩壊した後に立ち上がるデジタル固有の象徴秩序の構造だ。
知覚以前のメディア
この構図は、選挙の経験のなかに具体的に現れている。
開票速報を思い出してほしい。画面上では数字(象徴的データ)と、赤や青に塗り分けられた地図やグラフィック(想像的イメージ)が同時に流れてくる。SNS上では感情的な反応の洪水が重なる。数字とイメージと情動が一体のものとして、身体に飛び込んでくる。議席数という象徴的データだけを冷静に受け取ることは、ほぼ不可能だ。「圧勝」や「惨敗」というイメージとすでに不可分な状態で、それは届く。
しかし問題はスクリーンの上だけにあるのではない。
デューク大学のメディア理論家マーク・B・N・ハンセンは、キットラーの「すべてが0と1に還元される→人間が排除される」というテーゼに正面から反論した。『New Philosophy for New Media(新たなメディアのための新たな哲学)』(2004)でハンセンが論じたのは、デジタル化が進んでも身体は消えない、ということだ[13]。デジタル・イメージとは固定された対象ではなく、身体が情報をフィルタリングして知覚可能にするプロセスそのもの。キットラーが人間を回路から排除したところに、ハンセンは身体を情報の能動的な「枠づけ」の主体として取り戻した。
続く『Bodies in Code(コードのなかの身体)』(2006)でハンセンはこの議論をVRや没入型環境に拡張した[14]。バーチャル・リアリティ空間においてすら、人間の身体は知覚の枠組みとして機能し続ける。映画は「見る」メディアだったが、VRは「中に入る」メディアだ。想像界が身体感覚を侵食する。それでも身体は単なる受容器ではなく、デジタル情報と能動的に交渉する主体であり続ける——2006年時点のハンセンはそう論じた。
ところが2014年の『Feed-Forward(フィードフォワード)』で、ハンセン自身がこの立場を修正する[15]。現代のメディア——センサー技術、データマイニング、レコメンドのアルゴリズム、ウェアラブルデバイス——は、知覚の「対象」ではなく知覚の「条件」として作動する。メディアはもはや私たちとは別のものではなく、世界を経験する上で不可避の一部になった。メディアは人間の知覚意識の外側で、しかし人間の感覚を決定的に条件づけながら動いている。
この軌跡は重要だ。キットラーは三界の崩壊と人間の排除を予見した。ハンセンは「身体は残る」と反論した。しかし10年後にハンセン自身が認めた——身体は残るが、その身体の知覚が成立する条件そのものを、メディアが意識の手前で構成している。開票速報の画面を見ている「私」は、すでにアルゴリズムのレコメンデーション、通知設定、プラットフォームの情報環境によって、なにをどのような感情的文脈で受け取るかを事前に条件づけられている。
選挙結果が「現実」と感じられるのは、極めて今日的な現象なのかもしれない。デジタル環境において象徴界と想像界の境界が技術的に溶解し、さらにその溶解した環境そのものが知覚以前の水準で身体を条件づけているとき、選挙結果はもはや純粋に象徴的な装置による出力としては経験されない。三界が混融したハイブリッドな出来事として主体を襲う。
享楽のループ
だが、三界が溶け合ったとしても、現実界が消えるわけではない。アメリカの政治理論家ジョディ・ディーンは『The Real Internet(現実界としてのインターネット)』(2010)で、キットラーのラカン読解が構造主義的ラカン、つまり象徴界のラカンに偏り、現実界の回路としての欲動を見落としていると論じた[16]。デジタル化が三界の区別を溶かしても、享楽の回路(同一化に伴う、反復的な満足ないし苦痛)は消えない。むしろデジタル環境のなかで新たな形をとって回帰する。
これは抽象論ではない。選挙のたびに特定の政党や候補者を「推す」行為、開票速報を深夜まで見続ける行為、結果に落胆しても次の選挙で同じ投票を繰り返す行為——「推し活」と揶揄されることもあるこれらの行動には、合理的な政策判断だけでは説明しきれない「粘り気」がある。ギリシャ出身の政治学者ヤニス・スタヴラカキスはこれを享楽の「粘着性」として分析した[17]。政治的同一化の反復から得られる満足(あるいは苦痛ですらある満足)は、たとえその同一化が非合理的であっても、身体に固着し続ける。
デジタル・プラットフォームは、この享楽のループを無頓着ゆえに放置しているのではない。エンゲージメント最適化——いいね、リポスト、返信の予測確率でコンテンツをランク付けする仕組み——は、ユーザーの情動的反応を検知し、増幅し、反復させる設計になっている。怒りや興奮が反応を呼び、反応がさらなるコンテンツを呼ぶ。享楽の回路は、プラットフォームのアーキテクチャによって構造的にループさせられている。
まとめよう。象徴的データ(議席数)が想像的イメージ(圧勝/惨敗の視覚的演出)と融合し、さらに享楽の回路(同一化の反復的満足ないし苦痛)によって身体に固着する。そしてその身体は、ハンセンが指摘したように、メディア環境によって知覚以前の水準ですでに条件づけられている。この多層的な結合が、選挙結果を「現実」として経験させている。
象徴的な出力が身体に届き、固着する条件が、テクノロジーによって書き換えられた。
デジタルな「ポリス」
そしてこの変質したデジタル環境は、新たな形態の排除を生む。
デジタル・プラットフォーム上の政治的言説には、ランシエールが「感性的なものの分配」と呼んだものに相当する構造がある[18]。「なにが見え、なにが見えないか」をアルゴリズムが決定している。誰のコンテンツが届き、誰のコンテンツがノイズとして処理されるか。小選挙区制が得票率と議席占有率を乖離させるように、アルゴリズムは「エンゲージメント」という単一の指標で表現行為を数え上げ、特定のコンテンツを増幅し、他を消す。
Xの「おすすめ」フィードを対象とした最近の実験研究では、アルゴリズム型フィードが既存の報道機関の表示を58%減少させ、政治活動家のコンテンツを27%増幅させていることが示された。これについては、前回の記事で詳しく紹介している[19]。「おすすめ」が書き換えたフォローリストは、設定を元に戻しても残り続ける。アルゴリズムが遂行する「感性的なものの分配」は、一時的な表示の偏りではない。ソーシャルグラフそのものの不可逆的な書き換えだ。
このデジタルな「ポリス」は、古典的なポリスよりもはるかに不可視であり、はるかに緻密に作動する。シャドウバン、アルゴリズム的不可視化、プラットフォームからの追放——これらは「社会的死」の新たな形態だ。
インターフェース設計はこの構造に直接関与している。UIのボタン、フォーム、選択肢のアーキテクチャは、デジタル環境における「数え上げ」の物質的基盤だ。なにがクリック可能でなにがクリック不可能か、なにがデフォルトでなにがオプトインか——これらの設計判断が境界を画定する。
サイモンフレイザー大学のメディア理論家ウェンディ・ホイ・キョン・チュンは『Updating to Remain the Same(変わらないでいるためのアップデート)』(2016)で、このプロセスの最も強力な段階を記述した[20]。メディアは「新しいもの」であるあいだは注目の対象だが、本当に力を持つのは「習慣」になったときだ。スマートフォンのような存在はもはや誰を驚かせることもない。だからこそ、生活を構造化し、監視し、条件づけることができる。「私たちは自分の機械になる——ストリームし、アップデートし、キャプチャーし、アップロードし、リンクし、保存し、削除し、荒らす」。チュンはこれを「習慣+危機=アップデート」と定式化した。常に更新し続けなければ取り残されるという不安が、デジタル・メディアへの依存を自明のものにする。
チュンの議論がランシエールのポリスと交差するのはここだ。ポリスが最も効果的に機能するのは、配分の秩序が「自然なもの」として知覚されるときだ。デジタルな「ポリス」は、メディアが習慣化することで、配分の構造そのものが不可視になる。「なぜ自分のネットワーク・デバイスを『パーソナル』だと思うのか。それらはこんなにもおしゃべりで乱交的なのに」——チュンの問いは、「パーソナル」であるはずの投票行為が、どこまで本当にパーソナルかという問いに通じる。
投票用紙とウェブフォームは同じ問いを提起する。誰がこの選択肢を設計したのか。なにが選択肢に含まれ、なにが含まれなかったのか。選択肢の配置そのものが、どのような「数え上げ」を前提としているのか。
生成する機械
ここまでの議論には死角がある。キットラーからチュンまで、扱われてきたのはメディアが既存のコンテンツをフィルタリングする水準の問題だった。推薦アルゴリズムは人間が作ったコンテンツを選別し、増幅する。しかし内容そのものは作らない。
大規模言語モデル(LLM)はこの前提を壊す。テクストを選別するのではなく、生成する。象徴的内容の産出装置が、人間の外部に出現した。
カールスルーエ造形大学のメディア哲学者マッテオ・パスクィネッリは『The Eye of the Master(主人の眼)』(2023)で、AIを「労働の抽象化」の歴史のなかに位置づけた[21]。AIは知能を模倣しているのではない。人間の集合的な労働から抽出された統計的パターンを圧縮し、再配列している。ギャロウェイが等価交換(A = B)にデジタルの起点を見たように、パスクィネッリはAIのなかに、労働の抽象化が極限まで推し進められた姿を見る。
LLMは主体なき象徴的生産装置だ。出力されたテクストは象徴的交換のなかで機能する——引用され、信じられ、政策の根拠にすらなる——にもかかわらず、そこに発話の主体はいない。ひとまずのところは。
同時に、LLMの中核的訓練手法であるRLHF(人間のフィードバックによる強化学習)は、ユーザーの選好を報酬信号として学習し、迎合的な応答を構造的に生み出す[22]。ユーザーの欲望を映し返す鏡像的関係が、生成のアーキテクチャに実装されている。
フィルターバブルが「見えないものを増やす」装置だったとすれば、LLMは「見たいものを作る」装置だ。LLMが政策を「要約」し、候補者の主張を「比較」し、投票先を「提案」するとき、数え上げの条件はさらに一段深い水準で書き換えられている。
設計の倫理
選挙結果を「現実」と呼ぶことは、制度の出力結果を自明な事実に変え、数えられなかった者の存在を抹消する操作だ。
この操作はデジタル環境においてさらに強くなる。データの可視化が「客観性」の外観をまとい、アルゴリズムの選択が「中立的」な分配として現れ、享楽のループがユーザーの「自発的な反応」として処理されるから。ハンセンが示したように、21世紀のメディアは知覚以前の水準で身体を条件づけている。チュンが示したように、その条件づけは「習慣」として不可視化される。この二重の不可視性のなかで、「現実」は構築される。
しかし同時に、キットラーが示したように象徴界はメディア技術に依存している。デジタル化がその技術的条件を変えているのだとすれば、古い定義に安住して「現実」を語ることはできない。
ランシエールの「分け前なき者」は数え上げの外部に置かれ、ンベンベの「生ける屍」は生の資格を剥奪される。いずれも、制度が構成する「現実」のなかには現れない。しかし倫理はまさにそこから始まる。インターフェースを設計する者、テクストを書く者、プラットフォームのアーキテクチャを決定する者は、「誰が数えられ、誰が数えられないか」の境界を引く権力を行使している。
選挙は「現実」ではない。しかし、それが象徴界の装置による出力にすぎないという古典的な整理も、もはや十分ではない。デジタル化によって象徴界・想像界・現実界の境界が溶解し、メディアが知覚以前の条件として身体を構成し、その構成が習慣として不可視になるなかで、選挙の経験は三界の混融として主体を襲い、享楽の回路を通じて身体に固着する。数え上げの外部に置かれた者の沈黙は、デジタル環境においてさらに精密に、さらに不可視に組織される。
問われているのは、この変質した条件のもとで、なお「数えられない者」の声を聴こうとする構えを持てるかどうかだ。境界の外部になにがあるかを問い続けること。それが、この時代の設計倫理になる。
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脚注
[1]Slavoj Žižek, "DIVIDED WE STAND, UNITED WE FALL!," Substack, September 14, 2024. https://slavoj.substack.com/p/divided-we-stand-united-we-fall
原文:"There can be democratic elections which enact an event of Truth – the election in which, against the sceptic-cynical inertia – the majority momentarily 'awakens' and votes against the hegemonic ideological opinion; however, the very exceptional status of such a surprising electoral result proves that elections as such are not a medium of Truth."
[2]ラカンの象徴界については、Jacques Lacan, Écrits, Seuil, 1966. 象徴界をシニフィアンの秩序——法、規則、言語、社会制度の領域として捉える整理は、ラカン理論の入門的な文脈で広く共有されている。参照:Bruce Fink, The Lacanian Subject: Between Language and Jouissance, Princeton University Press, 1995; Dylan Evans, An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis, Routledge, 1996.
[3]現実界の定義については、Dylan Evans, An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis, Routledge, 1996, "real" の項を参照。「想像界=象徴界的現実が機能するために抑圧されなければならないもの」という定式化はジジェクによる再定式化。スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』鈴木晶訳、河出文庫、2015年。(原著:Slavoj Žižek, The Sublime Object of Ideology, Verso, 1989.)
[4]Claude Lefort, Democracy and Political Theory, trans. David Macey, Polity Press, 1988.
[5]Ibid.
[6]ジャック・ランシエール『不和あるいは了解なき了解——政治の哲学は可能か』松葉祥一・大森秀臣・藤江成夫訳、インスクリプト、2005年。(原著:Jacques Rancière, La Mésentente, Galilée, 1995. 英訳:Disagreement: Politics and Philosophy, trans. Julie Rose, University of Minnesota Press, 1999.)
[7]「分け前なき者の分け前」はランシエール政治哲学の中心概念。Ibid., 第1章。
[8]Achille Mbembe, "Necropolitics," Public Culture, 15(1), 2003, p.11. 邦訳:アシル・ンベンベ『ネクロポリティクス——死の政治学』岩崎稔・小田原琳訳、人文書院、2025年。
[9]ンベンベの「太陽的」と「夜の身体」については、アシル・ンベンベ『ネクロポリティクス——死の政治学』岩崎稔・小田原琳訳、人文書院、2025年、第一章「民主主義からの退出」。(原著:Achille Mbembe, Necropolitics, Duke University Press, 2019.)
[10]Friedrich Kittler, Gramophone, Film, Typewriter, trans. Geoffrey Winthrop-Young and Michael Wutz, Stanford University Press, 1999.
[11]Ibid., pp.1-2. 原文:"Instead of wiring people and technologies, absolute knowledge will run as an endless loop."
[12]M. Beatrice Fazi, Alexander R. Galloway, Matthew Handelman, and Leif Weatherby, Digital Theory, meson press / University of Minnesota Press, 2025.
[13]Mark B. N. Hansen, New Philosophy for New Media, MIT Press, 2004.
[14]Mark B. N. Hansen, Bodies in Code: Interfaces with Digital Media, Routledge, 2006.
[15]Mark B. N. Hansen, Feed-Forward: On the Future of Twenty-First-Century Media, University of Chicago Press, 2014.
[16]Jodi Dean, "The Real Internet," International Journal of Žižek Studies, 2010. https://zizekstudies.org/index.php/IJZS/article/view/280 キットラーが構造主義的ラカン(象徴界のラカン)に偏り、現実界の回路としての欲動を見落としているという論点を展開。
[17]Yannis Stavrakakis, The Lacanian Left: Psychoanalysis, Theory, Politics, Edinburgh University Press, 2007. 特にCh.4 "What Sticks? From Symbolic Power to Jouissance"(pp.163-188)。スタヴラカキスは享楽(jouissance)を、幻想的な同一化の反復がもたらす満足として論じ、その「粘着性」が政治的同一化を支えるメカニズムを分析している。
[18]ランシエールの「感性的なものの分配」概念については、ジャック・ランシエール『感性的なもののパルタージュ——美学と政治』梶田裕訳、法政大学出版局、2009年。(原著:Jacques Rancière, Le Partage du sensible, La Fabrique, 2000. 英訳:The Politics of Aesthetics: The Distribution of the Sensible, trans. Gabriel Rockhill, Continuum, 2004.)
[19]Gauthier, G., Hodler, R., Widmer, P. & Zhuravskaya, E. (2026). The political effects of X's feed algorithm. Nature. https://doi.org/10.1038/s41586-026-10098-2
[20]Wendy Hui Kyong Chun, Updating to Remain the Same: Habitual New Media, MIT Press, 2016.
[21]Matteo Pasquinelli, The Eye of the Master: A Social History of Artificial Intelligence, Verso, 2023.
[22]RLHFの迎合性については、Shapira, I. et al. (2026), "How RLHF Amplifies Sycophancy," arXiv:2602.01002. また OpenAI, "Sycophancy in GPT-4o: what happened, and what we're doing about it," April–May 2025.
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